もし、心のままにキャリアを選んだら?石井重成が大手コンサルを辞めて被災地職員になったワケ

大手コンサル会社で約束された道を捨て、東日本大震災の1年後に岩手県釜石市へ移住した石井重成氏。石井氏が大事にしているのは、偶然の出来事に対する心の温度の高まりに従い道を選択することでした。本記事では石井氏のキャリアを振り返りながら、それを形成するに至った「9」のファクターをビジネスモデルキャンバス、ならぬキャリアモデルキャンバスで解き明かす。

石井重成 青森大学社会学部 准教授
大手経営コンサルティング会社を経て、2012年に任期付職員として岩手県釜石市役所に入庁。多様な官民パートナーシップ事業を手掛け、市総務企画部オープンシティ推進室室長として、地方創生の戦略立案を統括。2021年の任期満了後、青森大学准教授に着任。(一社)地域・人材共創機構代表理事、(一社)明和観光商社共創フェロー、ふくしま12市町村移住支援アドバイザー、総務省地域情報化アドバイザー、内閣官房シェアリングエコノミー伝道師など、各地で地域ハンズオン支援や人材育成に取り組む。著書に『ローカルキャリア白書 -未来の働き方はここにある』。

偶然を愛することで新しい地平が見える

僕は、時にはこれまで築いてきたものを「手放す」ことも必要だと思っています。つまり、自分のキャリアにおいて偶然を愛し、これからの道を選択することを大切にしています。

被災地に行こうと決意して、大手経営コンサルティング会社を辞めたとき、自分の持っているものを手放すことで新しい地平が見えました。

そして、約9年間、とことん働いた釜石から離れるときも、やはり、一度持っているものを手放すべき時期にきていると感じていました。

その結果論として、僕はいま、産学官の境界線に立って仕事をする人間になりました。

30代で産官学の各セクターを一周するようなキャリアパスは珍しいようで、「もともとこういうキャリアを考えていたのですか?」と尋ねられることがあります。

しかし、まったくそんなことはありません。偶然ともいえるような出会いに導かれ、実際に起きたことを意味づけていく過程から、たまたま今の僕ができあがっただけです。

そもそも小さい頃の僕は、どこにでもいる普通の子でした。

当時、母親からは「安定しているから公務員になりなさい」と言われて育ち、まさかロールモデルが誰もいないような道を歩むとは思いもよりませんでした(笑)

ただ、興味を持ったことにはとことん力を注ぐタイプだったのかもしれません。

中学生の頃、歴史の授業で第二次世界大戦の敗戦について学んだ時、「なぜ、こんなにも負けが決定づけられた戦いを日本は挑んでしまったのか」ということが気になり、先生に質問に行きました。

しかし、先生は言いよどんで、あまり詳しく説明をしてくれなかったんです。もやもやして、地域の図書館で戦争に関する本を読み漁りました。

「なんでだろう?」という心の動きから、何かを知るために行動するおもしろさを知った経験だったような気がします。

大手コンサルの肩書を捨て、釜石へ

大学卒業後、大手経営コンサルティング会社に就職しました。深い理由はありませんでしたが、「安定しているから公務員」の道とは異なる仕事をしたいと、どこかで思っていたのかもしれません。

デジタルによる業務のプロセス改善など、クライアントである大企業の課題解決にあたる日々を送っていました。朝8時に出社して深夜0時までExcelを眺めて数字と格闘することもありました。

そんな生活の中で、2011年3月11日、東日本大震災が起こります。

テレビの映像を観て、「大変なことが起こってしまった……」とは思いましたが、どこか自分とは違う世界の出来事のような感覚でした。

その翌年、友人が東北でイベントをするというので、僕は震災後初めて被災地を訪れました。そして、そこで見た光景に言葉を失いました。

「なぜ、震災から1年経っているのに復興が進んでいないんだろう」

当時、東京では次第に震災に関するニュースが減っていました。すでに多くの人が日常を取り戻していたのです。

しかし、どうでしょう。いまだ、被災地では屋根の上に船が乗り、瓦礫の山が広がっている。自宅に戻れない人も、肉親を探し続ける人も、たくさんいました。

僕は、コンサルタントとして朝から晩まで企業の課題に取り組んでいました。しかし、「取り組むべき課題はここにあるんじゃないか」と被災地の光景に心が揺さぶられました。

さらに、何もなくなってしまった被災地で呆然としていた僕の目に飛び込んできたのは、前向きに地域の未来を話し合う被災地の方々でした。

大変な生活をされているはずなのに、ボランティアや学生と混ざり合いながら、「自分たちのまちをどう復興していきたいか」を熱く語っている。

ゼロから何かを築いていこうとするその姿に、心の温度が高まり、掻き立てられました。

「今、ここにいないでどこにいるのだろうか」

目の前にいる人たちと未来に向けて何かをしたい。そんな思いに突き動かされ、被災地から戻ってすぐ、僕は「会社を辞めて東北に行く」と上司に伝えました。

東北への具体的な関わり方も見えぬうちに、3年半勤めた会社を退職する決断をしました。

東京を去る僕に、「今持っているものを捨てていいのか?」といった声を掛ける人もいました。

今持っているものとは、例えば、年収やある程度予測できるキャリア、ステータスなどかもしれません。たしかに、会社を辞めることでそれらは失われるかもしれない。

でも、冷静に考えると、実は大したものを持っているわけではないんです。当時26歳でしたが、「自分の心に嘘をついて生きていくには、この先の人生は長すぎる」と思ったら、そんなのまっぴらでした。

たしかに、一度手にしたものを手放すことには怖さはつきものです。しかし、失って本当に困るようなものはそうない。

であれば、心の温度に従うことの方が人生においてずっと大切だと思ったのです。

「分断」を解消するコーディネーター

退職を申し出た3ヶ月後には、僕は釜石にいました。そこで僕は市役所の任期付職員として働き始めます。

実のところ、職員として何をするかは決まっていませんでした。ただ、被災地の人々の役に立とうと、釜石でしたいことをメモにまとめていました。

2012年当時の釜石は、毎日のように復興に関する住民説明会が開かれていました。多くの住民が仮設住宅で暮らし、先が見えない日々を過ごし、日常生活を取り戻すにはまだまだ時間が必要な状況でした。

釜石に来て間もない日に参加した説明会では、怒号が飛び交う混乱状態。被災地から離れた東京で考えてきたメモなど出す余地はありません。

「今、大事なことは、住民の声をよく聞き、どんな小さなことでもこの体と頭を使って少しでも改善することだ」

そんなことを思い、僕はその日から「何か困っていることはありませんか?」と尋ね回る御用聞きとして住民や支援団体などに話を聞くことを繰り返しました。

石井さんが釜石に来た当時

その中で、行政と住民の間、民間支援と住民の間と、いたるところに溝があり分断が起きているということがわかりました。

そして、次第にこの狭間に僕の役割があるのではないかと感じるようになっていきます。

震災後にはじめて釜石市役所に入庁した民間出身者という経緯もあり、僕は、行政・企業と住民の間に入って問題を整理し、解決に向けた試行錯誤を重ねるコーディネーター的役割を担っていくようになります。

より面的に取り組みを進めていくために、地域コーディネーター組織「釜援隊」を創設し、全国から仲間を募りながら、一つひとつの復興課題に向き合っていきました。

「アジェンダくん」が地方創生の事業責任者に

「君みたいな子が復興10年やり遂げたときに、どんな景色が広がっているか見てみたい」

2004年に起きた中越地震の震災復興を牽引してきた方から言われたその言葉が、いつの頃からか、僕の中で忘れられない一つの何かになっていました。

一時被災地を訪れて、すぐに去っていく人はたくさんいます。そういう僕自身も、「なぜ、自分は釜石にいるのだろう……」と心がぐらついたことは一度や二度ではありません。

その際に、「復興10年」というこの言葉を思い出し、自分が釜石にいる意味に対峙してきました。

強い思いはありましたが、地域の中に入っていくことはそう簡単なことではありません。みんな顔見知りの社会にポンと入った僕は面と向かって「誰だ、おまえは」と言われることもありました。

話し合いの進行をよくしていたこともあり、「アジェンダくん」なんてあだ名もつけられていました。きっと、よくわからない横文字の多い変な奴ということだったのでしょう(笑)

被災地で復興まちづくりに取り組む困難さを痛感しつつ、いろいろな方々と対話を重ねながら、自分ができること、やるべきことを模索し続けました。

釜石に行って3年後、ひょんなことから、僕は地方創生の総合戦略を統括する、新設された市総務企画部オープンシティ推進室の室長となります。

都市での災害の場合には、「復旧」と「復興」がほぼ同義で語られることもあります。しかし、東日本大震災の場合、「元に戻す」だけでは「復興」はしません。震災前から人口減少が続いていた土地を津波が襲い、一層の人口減少を招いた構図があるからです。

様々な立場にある方々と復興まちづくりのビジョンを描き、インフラ復旧後を見据えた新しい挑戦を創造していく必要があったのです。

僕は、突然、この新たなまちづくりの構想をつくっていく重責を担うこととなりました。

地域の意見と行政の政策をどう橋渡しすればよいのか、どうしたらみんなが本音を話してくれるのか、話してくれたことをどうアクションにつなげていけばよいのか、そもそも、市役所内の連携やチームをどうつくっていけばよいのか……。

あらゆることに悩んでいました。

自身を不甲斐なく思い、できないということを痛感した数年間でもありました。

この時に学んだのは、「100点を目指さない」ということ。

当時の僕は、みんなに心から納得してもらえるような地域の生存戦略をつくらなければならないと躍起になっていました。100人いたら100人と合意形成しないといけないと思っていたのです。

しかし、100人の合意を目指すと、最大公約数になり、実質何も言っていないに等しい施策になってしまいます。僕がすべきことは、そういうことではない。

小さく始めて、上手くいったら大きく育てる。ダメだったら真摯に謝る。

釜石の「課題」を多様な人や企業に関わってもらうための「余白」に変換し、地域内外のつながりを新しい事業やプロジェクトの推進力に代えていく。

オープンシティ推進室は、地域イノベーション創発のための「出島」役に徹しようと決心がついてからは、自分らしさが確立されていったというか、自身の存在意義と釜石の震災復興が融和されていくような感覚を覚えました。

最後の3年くらいは、自分が抜けても事業が回っていくような仕組みづくりや人材育成にも意識が向いていました。その頃には、接する人の姿勢もガラリと変わり、みんなが協力してくれるようになっていました。

高校生のキャリア支援事業「Kamaishiコンパス」関係者と

震災から10年を迎えるにあたり、釜石を離れるべきか本当に悩みました。愛着もありますし、自身のアイデンティティと釜石の震災復興を同化させてきたわけですからね……。

最終的に、僕は釜石市役所を卒業することを決断します。今持っているものを手放してこそ、新しい出会い、新しい地平がある。

離れていても地域に貢献できることがありますし、次の10年は異なる立場から釜石に関わっていこうと決めました。

釜石に飛び込んだ時のことを胸に刻み、新たな一歩を踏み出したのです。

産官学を越境し、予測できない未来に進む

2021年、釜石を離れた僕は青森大学で教育・研究活動に取り組んでいます。「産官学」のうち「産」と「官」を経験したので、次は「学」に飛び込み、3つの領域を越境してみたいと感じていました。

いろいろな選択肢の中で、自身の働く姿を最もイメージできなかった意思決定をしました。

大学教員のほかにも、(一社)地域・人材共創機構の代表理事を務め、自治体や中間支援団体向けのハンズオン支援や、地域を題材とした大企業向けのリーダーシップ開発に取り組んでいます。

大学での学術的な知見と、地域での実践的なプロセスを行き来しながら、震災復興と地方創生の生きたケースを共有し、学生とともに学び合っていきたいと思っています。

学生たちの中には、自分で考えることが得意でなかったり、考えていても発言ができなかったりする子が少なくありません。そこには成功体験の少なさからくる、自己肯定感の低さが要因にあるのかもしれません。

しかし、こうした状況はきっと変えることができます。

僕が震災復興の現場から学んだ一番大切なことは、「目の前の現実は変えられる」という価値観そのものでした。

眼前の様々な困難に対して、自分の力ではとうてい変えることのできないものと認識するのか、それは所詮、誰かがつくってきたものがゆえに、自分の意思と行動によって変えることができるものと捉えるのでは、人間としてのあり様が180度変わってきます。

法律や制度、政策、企業経営も、本来はすべて人の力で変えることができるもの。自身を取り巻く環境に対して、何一つあきらめる必要はないのです。

ただ、こうした実感値を自身に内包していくためには、自分の考えたことが認められたり、小さく動いてみたことで地域がよくなったりという経験を、自己有用感や肯定感につなげていくような過程が重要です。

今、僕が真に担うべき役割とは、半径2メートルから地域社会を変革していくための人づくりにあるのではないかと思っています。

まだ見ぬ新たな未来を目指して、新天地での挑戦に取り組んでいきます。

これからも、自身の心の温度に従える人間でありたいものですね。

石井重成のキャリアモデルキャンバス

大手コンサル会社を辞め、持っているものを手放して釜石の地へ飛び込んだ石井氏。震災後10年を経て次に選んだ道は、再び未知の領域である大学教員の道だった。同氏はいかにして、オリジナルな選択を果たせたのか。

Value ─キャリアを通じて提供したい価値は?─
→目の前の現実を変えるための勇気と技巧を提供すること

「自身の生き様を社会と共有し、地域の現場で悪戦苦闘をされたり、モヤモヤされている方の背中を押してあげられるような存在でありたい」

Customer Relationship ─周囲の人とどう接する?─
→オーセンティック・コミュニケーション

「自己開示をして、ありのままに接すること。組織の肩書きではなく、一人ひとりの人間として真摯に接すること」

Channel  ─自らの考えをどう届けている?─
→自分らしく生きること自体が発信

「誰かの人生ではなく、自分自身の人生を歩んでいれば、情報発信は自然と後からついてくるもの」

Customer Segment ─誰の役に立ちたい?─
持続可能な地域の発展を願い、行動する方々

「行政・企業・NPOの各セクターにおいて、地域社会の未来を紡ぐ意思を持ち、行動する方々との共創を育んでいきたい」

Key Activity ─キャリアを通じて行っている行動や活動は?─
→偶然性を愛し、起きたことを意味づける

「自分の身に降りかかることはコントロールできないことも多い。悲観せず、慢心を抱かず、起きたことを意味づけていく過程が、また予期せぬ出会いや機会を誘引する」

Key Resource ─原動力となる能力やスキルは?─
→最後は何とかする力

「何が起きても、どんなに上手くいかなくても、最後は何とかするという胆力と技能があって、はじめて偶然性を愛することができる」

Key Partner ─自身のキャリアの重要な協力者は?─
→釜石時代の僕を導いてくれた3名

「1人目は、『君みたいな人が10年頑張った先の東北の姿を見てみたい』という激励の言葉をくれた稲垣文彦さん。2人目は、釜石に移住してから随所で機会を与えてくれた社会起業家の藤沢烈さん。3人目は、市役所で僕のことを支えてくれた佐々木勝さん。危なっかしく感じたこともあったと思いますが、応援してくれた勝さんに心から感謝しています」

Cost ─キャリアのために投資していること、犠牲にしていることは?─
→言葉を磨くこと

「この10年ほど、日々の認知や思考をEvernoteに書き留めています。知的好奇心を持ち、コンテクストを紡ぎ、自分の言葉を持つことです」

Reward ─あなたは働くことを通じてどんな報酬を得たい?─
→地域社会の未来に対峙するという実感

「持続可能な地域社会をつくっていくための試行錯誤から、自身の行動や思考に意味があると感じられる瞬間にやりがいを感じます。実感そのものが報酬ですね」

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編集:野垣映二(ベリーマン)
執筆:佐藤智
撮影:西川幸冶(STUDIO・2GRAM)

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